4年目

勉強

音楽と視覚芸術の嗜好から大喜利の嗜好を考えてみる

こんにちは。モーリシャスです。

今回は「音楽と視覚芸術の嗜好から大喜利の嗜好を考えてみる」という話をします。

なぜわざわざこういうことを考えてみるに至ったかというと、端的に言ってしまえば僕が僕自身の大喜利を全く好きではなくなったから、ということになります。

ネガティブに聞こえる言葉ですが、特にネガティブな意味合いはありません。

ウケないから、勝てないから、否定して励ましてほしいから自分を卑下しているという類いのものではなく、単純に自分がしてきた大喜利の内容に徐々に飽きてしまって、ついに全く興味がない所まできたという、それだけの話です。

過去に僕がしていた回答を少しでも好きだと思って下さった方、またそれを伝えて下さった方々がもしご覧になられていたら、こういう書き出しになってしまったことを先に謝らせて頂きたいと思います。

決して、僕の過去の回答、僕の過去の回答を好きだと思って下さった方を否定している訳ではなく、

過去の回答について大変多くのフィードバックを頂き、既に十二分に楽しませて頂いたので、もうそこから新しく得られるものがなくなったという意味です。

僕はたぶん相当の飽き性で、様々な試行錯誤の後にある程度結果が読めてしまう状態になったものには急速に興味が無くなってしまいます。

大変、大変ありがたいことに「モーリシャスさんってこんな回答されますよね」とたまに話題に上げてくださる方がいらっしゃるのですが、

もの凄く嬉しいと思うと同時に、それだけ「こんな」の部分を認知して頂けたのならもうそれ以上同じベクトルのことを続けなくてもいいのかなとも思ってしまいます。

さらに深く掘れる余地があるのであればもちろん深く掘り進めるよう努めますが、単純に同じベクトル・構図の回答を量産するだけならやってもやらなくてもそんなに変わらないというか。

だから次に興味を持てる、好きになれる回答を他の分野から探してみようという、本当にそれだけの話をこれからしようとしていて、自己否定に走るようなネガティブなメッセージは一切何もない、という点だけご承知置き頂いて、ご覧頂ける範囲までご覧頂けたら嬉しいです。

まあ、単なる僕の思考(嗜好ともかかっている、うまい)の整理なのでそもそもご覧頂かなくても良いという説もあります。

この先、熱い文章やメッセージ性の強い文章が並んでいる訳でもなく、ただ淡々と「音楽と視覚芸術の嗜好から大喜利の嗜好を考えてみる」だけの文章になります。

大喜利に特化した内容の文章でもないですし、殆どの方にとって全く知らない、馴染みのない作品などもかなり出てきますので、意味が分からなくなった段階で遠慮無くブラウザを閉じて頂ければと思います。

もし最後まで、もしくは途中までこのエントリをご覧頂けて、しかも大喜利そのものやその源流となる音楽、視覚芸術などに対して同じような嗜好を持っている方がいらっしゃるのであれば、

あるいは嗜好は全く違うけれど同じように媒体を跨いで、大喜利の外から大喜利のことを考えるのことが好きな方がいらっしゃれば、

いつかそういう話を直接させて頂く機会を頂ければ大変嬉しいです。

自分の大喜利の嗜好、本当に好きな回答とは何なのかを考え直すのもそうですが、

僕の音楽や視覚芸術に対する嗜好を放出して、少しでも誰かに何かが引っ掛かればというのも目的でもあったりします。

大喜利でも音楽でも視覚芸術でも何でもいいので、みんなで色々な話をしましょう。させてください。

今はよく自分さんや神聖な大木さんとこの手の話をさせて頂くことが多くて、本当に有難い限りですのでこの場を借りて改めて感謝したいと思います。

自分さんと一緒にSONICMANIAでMy Bloody Valentineのギターノイズに包まれて放心状態になり、Isn't Anythingというチーム名でEOTスパーリングに出れたのも本当最高ですし(今度はmbvで金子杯に出ます!)、

神聖な大木さんが音楽と大喜利の嗜好の関係について僕と会話したのを覚えてくださっていて、ツイキャスで触れて下さったのもとても嬉しかったです。

アンビエントの良さを大喜利にするのはなかなか難しいかもしれないですけどね。。
(アンビエントを大喜利にするのが難しい理由は後ほど少し触れてみます)

また、僕のシューゲイザー関連のツイートに反応して下さった空飛ぶタイヤさんや吉永さん、菅原パスタさん、

岡上淑子のコラージュ作品に反応して下さったネイノーさんなどもありがとうございます。
(先週で東京都庭園美術館の展示は終わってしまいましたね悲しい...)

大喜利界隈は世間一般から見てマイノリティな嗜好を持つ人が集まった集団だと思っていて(大喜利をしたいと思っている時点でかなりのマイノリティです)、

だからこそ大喜利以外のマイノリティ的なトピックについても臆せず自分の嗜好を発信することができて、それによって新たな繋がりが生まれていく所が本当に好きです。
(デレマスがマイノリティなのかどうかは分かりませんが、界隈の中で大きなムーブメントになっていて凄いなあと思いながら眺めています)

もしかしたら大喜利自体よりもずっとずっと好きなことかもしれません。大喜利はシンプルであるが故に人を選ばなくて、結果様々な属性の方が集まってきていて本当に面白いです。


という訳で僕も、「音楽と視覚芸術の嗜好から大喜利の嗜好を考えてみる」という話を臆せず発信させて頂きたいと思います。

よろしくお願いいたします。



(ご興味がない方、ここからめちゃくちゃ長いです、引き返すなら今です)





今年の初めに、4年目は大喜利を頑張るという文章を書き上げました。

https://mbv-0815.hatenablog.com/entry/2019/01/05/183441

僕はその中で、4年目はもっと「余韻が残る」回答を追求していきたいと記しました。

昨年くらいからそういう回答、短い言葉から情景が、特に冷たい温度感の情景が広がっていくような回答を目指すようになって、このエントリを書いていた時も実際に強くそう思っていたのですが、

その後ぼけおめや遊び場に取り組んでいてもどうも身が入らないというか、回答を考えるプロセスが楽しくないと思うことが多くなりました。

生大喜利の大会はそういう回答を中々短時間では纏めらなくていつも中途半端な回答を出さざるを得ず、昨年の段階からそんなに楽しめないようになっていたのですが、

今年に入ってから時間に余裕があり十分に回答を練ることのできるネット大喜利も楽しくなくなってしまいました。困った。

これは大喜利そのものに飽きたということなのかな?とも最初は思いましたが、他人の回答を観るのは生大喜利でもネット大喜利でも依然楽しかったので、

大喜利そのものではなく僕自身の回答に飽きてしまったから楽しくなくなったのかな、と考えるようになりました。




僕は本当は「余韻が残る」回答なんて好きではないのではないか??

既に「余韻が残る」回答で評価されている他人を見て、自分も評価されたかったが故に「余韻が残る」回答が好きだと思い込んでいるのではないか??

だとしたら僕が本当に好きな回答とは何なのだろうか??





みたいなことを考え始めたのがこのエントリの出発点です。

前置きが長いですね、進みます。

(前置きに埋もれてしまった方、またどこかでお会いしましょう)


さて、

僕が本当に好きな回答とは何なのだろうか??ということを考えていくにあたってですが、

その際、既存の大喜利の枠組みの中から、つまり他人が今現在している大喜利から僕の好きな回答を導き出していく方法は取らない方がいいのかなと感じました。

他人がもう既に大喜利の枠組みの中で実現している回答なのだから改めて僕が焼き直さなくてもいいのでは?というのもありますし、

同じ大喜利の世界から好きな回答を抽出してしまうと、現時点でその回答が評価されているのかされていないのかみたいな部分でどうしても嗜好にバイアスがかかってしまうから、というのもあります。

例えば僕が好きだと思い込んでいた「余韻が残る」回答というのも、

そういう回答自体が純粋に魅力的だったという面ももちろんありますが、そういう回答を出されて活躍されている方、またそういう回答が手放しで評価されている光景が魅力的に映ったことも大きかったのではと今となっては思います。

もちろん、それ自体は全く悪いことではないのですが。

ただ、評価されることを見据えて好きになった回答は、実際に評価されなければなかなか好きになることはできませんし、

その評価の基準も、既に一線級で大活躍されている方々から導き出された回答なので生半可な成績では評価されたとすら感じられないので苦しさに繋がってしまいやすくなります。

そもそも 、大喜利を始めた当初のことを思い返してみると、

「評価されるためにどういう回答をするか」

という視点は全く頭に無かったように思います。

評価からの逆算ではなく、僕が常日頃持ち合わせている感覚を回答にして提示したらみなさんにどう評価されるのか、

その確認に対するフィードバックとして笑いとして返ってくることがただただ楽しかったと記憶しています。

得たい評価から逆算して回答を導き出すのではなく、まず出したいと思える回答がありその評価を確認する、全く逆のプロセスが楽しかったはずです。

僕も大喜利を3年くらい続けているうちにある程度のコツみたいなものは習得することができ、それを使って大きいウケを頂いたり大会である程度まで勝たせて頂くこともできるようになったりしました。

その楽しさに取り憑かれてしまって、評価と確認の優先順位がいつの間にか逆転してしまったようです。

もちろん、評価を最優先に取組むことも素晴らしいことです。

大喜利はかなり不確実性が高い競技で、その中で安定的に評価を得ていくための戦略を追求していくことにもかなりの奥深さがあると思います。

僕も一時期は大会で勝つべくかなり燃えていた時期があって、そのために勝てる回答にアジャストしていくということをむしろ楽しみながら取り組んでいたこともありました。

ただ、めちゃくちゃ飽き性なのでそういう評価を目指した楽しみ方(いや評価は今も目指したいのですが評価から逆算して回答を作るということ)にはすっかり飽きがきてしまいました。

僕にもう少し簡単に勝てる才能があれば、リターンも大きかったので評価を目指した回答にも飽きなかったのかもしれないですが。。

もちろん、何も考えずに即興性を楽しむとか、コミュニケーションツールとして楽しむとか、他にも色々な考え方があると思います。

全部全部素晴らしい姿勢ですし、その中のひとつとして僕は大喜利の中で好きな回答を追求することに重きを置くという姿勢をとっていて、その姿勢についての悩みや楽しみを日々発信しているという、それだけの話です。



少し話が逸れたので本題に戻します。

上述したように、僕が本当に好きだと思える回答とは何かという問いに対して、それを同じ大喜利の枠組みの中から考えるのは良い方法ではなく、

大喜利の枠組みを越えて、様々な表現媒体で普遍的、本質的に好きだと感じている要素や、そこから得られる体験を抽出して、それを大喜利の回答にも還元していく方法がより望ましいのではと思いました。

大喜利の枠組みの中だけで考えるより、表現媒体問わず普遍的、本質的に好きだと感じている要素や体験の方が簡単には飽きないしたぶん個性も出てくるし他人に評価されなくても気にならないと思えるはずなので。


表現媒体といっても色々なものがありますが、僕は音楽を聴いたり絵画、写真などの視覚芸術を観たりするのが特に好きです(知識は全く無いです)。

大喜利に近い分野で言えば、漫才やコントなどのお笑いを観るのも好きです(そういう方は大喜利界隈にも多いと思います)。

一方、文章表現に関してはかなり疎くて小説の類いはほとんど読んだことがありません。

大喜利から派生して自由律くらいなら俳句にも手を出してみようかなという気持ちには少しずつなりつつあります。

定型は575に収める利点がまだ見つけられていないのと、季語を使って言いたいことがないので少々厳しいですね。。

映像表現に関しては、映画やドラマはめったに観ないです。逆に尺の短い抽象的な映像表現は結構好きで美術館などでも頻繁に足を止めて観たりしています。

小説や映画は触れ始めたらおそらくハマるとは思うのですが、少し情報量が多いというか、抽象表現が飛び抜けて好きなので具体的な描写が多い小説や映画とは相性が悪いのかもしれません。

あとは彫刻や陶芸なども抽象度が高ければ観ます。



最初はそれぞれの表現媒体、特に音楽と絵画、お笑いあたりを全く独立した趣味として楽しんでいたのですが、

年数が経つうちに媒体を越えて体験が繋がっていくような感覚を持つようになりました。


「この音楽とこの絵画の体験似ているな」とか、

「この漫才はこの音楽っぽい展開だな」とか。


音楽も視覚芸術も、お笑いもその他の表現媒体も、媒体自体はすべて何かしらの体験を与えるための一つの手段にしかすぎないと思っていて、

そういう意味ではこのような感覚を持つことは極めて自然な成り行きなのではないかと思います。


逆に、それぞれの表現媒体で好きだと感じた作品を観察していくことで、僕が普遍的、本質的に好きだと感じている体験が抽出できるはずです。

そして、抽出した体験を理想に据えた状態で、表現媒体の一手段である大喜利にも還元することができれば、これほど強固なことはないと思います。

表現媒体を越えて、点ではなく面で様々な体験を楽しんでいくことは、深く潜れば潜るほど新しい繋がりを指数関数的に発見できるので人生を通して飽きない旅になると思っていて、

改めてそこのひとつのパーツとして大喜利もしっかり収まってくれればという希望があります。

目先の評価だけで好き嫌いを左右されてしまうのはとっても勿体無いです、とても楽しい競技であるが故に。

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今はこういう状態なのでとても良くない。


そういう意味では、本当は音楽の作り方や絵の描き方、写真の撮り方なども平行して習得していくべきなんだろうなと思います。

発信したい体験に対して、それを表現する手段が大喜利しかないというのは全く健全ではないので。

(そもそも大喜利って何かを表現するための手段なのか?どちらかといえばクイズや面接に近い、単純に最適解を提示するゲームなのでは?
という大喜利そのものの役割についての疑念もありますが、それはまた別の機会に考えます)


とりあえずの所は、自分が普遍的、本質的に好きだと思っている体験を抽出して言語化しておくことそれ自体にかなりの価値がある気がするし、

それが少しでも大喜利に活きればいいし、また大喜利以外の他の表現に触れていく際の基準にもなれば良いですよね、ということでようやく本題に入りたいと思います。

(もう既に誰も居ないと思われる)



最初に、僕が大喜利以外に楽しんでいる表現媒体、具体的には音楽や視覚芸術、お笑いなどでよく聴いたり観たりしている手法、そこから得られる普遍的、本質的に体験を抽出します。

次に、音楽や視覚芸術、文章(大喜利はここに属する)それぞれの表現媒体における特性の違いを整理します。

最後に、表現媒体における特性の違いも踏まえて、僕が普遍的、本質的に好きだと思っている体験を大喜利という手段で表現する時に、何をポイントにして取り組んでいければ良いかということを纏めて結論とします。

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図にするとこのようなイメージ。

はー、ようやくエントリの骨格を伝えきりました。


疲れたので少し休憩します。


(休憩)


休憩終わりました。


さて、まずは音楽や視覚芸術、お笑いなどを楽しむときに僕がよく聴いたり観たりしている手法、そこから得られる普遍的、本質的に好きだと思っている体験を抽出したいと思います。

結論から言えば、僕はノイズ、コラージュ、ループという3つの手法が使われている作品がとても好きです。

(結論を綺麗に3点で纏められたのでコンサル適正があるかもしれない)

順を追ってご紹介します。


(1)ノイズについて

僕はノイズと呼ばれる表現がとても大好きです。

ノイズと聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?

工場や電車などの騒音、テレビの砂嵐、電気信号の乱れなど、世の中には無数にノイズと呼ばれるものが存在します。

一言にノイズと言っても様々な種類がありますが、その性質を一言で纏めると、

「処理対象となる情報以外の不要な情報」

ということになるかと思います。

人間もコンピューターも、無数の入力に対して情報の取捨選択や演算処理を行い何らかの出力を行っていますが、その処理の際に不要と見なされ捨てられるもの、それがノイズになります。

僕はこのノイズとよばれるものがとても大好きです。

僕はまず音楽の世界から、すなわち雑音としてのノイズからその魅力に気づき、大好きになりました。

音楽を制作する際には、様々な音が選ばれながら全体が組み立てられていく訳ですが、同時に「音楽ではないもの」として捨てられていく音があります。

極端な例をあげると、例えばクラシック音楽はピアノやバイオリンなど、ごく限られた楽器の音色のみを音楽として処理していて、その他多くの音は「音楽ではないもの」として捨てられています。

逆の極端な例をあげると、ミュジーク・コンクレート(具体音楽)では伝統音楽が「音楽ではないもの」と見なしてきた音、例えば鉄道や都市などから発せられる騒音、動物の声、自然界から発せられる音、電子音などの音のみで音楽を構成しています。

ミュジック・コンクレートの創始者として有名なピエール・シェフェールの楽曲です。面白いなと思う部分もありますが、僕もそこまで良さは分かりません。

最近の音楽の歴史は、ある側面で見れば従来「音楽ではないもの」として捨ててきたノイズを、いかに許容して音楽に取り入れていくかという不断の試みの歴史でもあったかと思います。

そんなノイズを、文字通りノイズとして聴いた経験だったら僕も生まれてから無数にあったと思いますが、

それをはっきりと「音楽」として認識するようになったのはMy Bloody Valentineというアイルランド出身のロックバンドに出会ったことがきっかけでした。

My Bloody Valentineは、広く言えばオルタナティブ・ロックと呼ばれるジャンルに分類されるバンドで、もう少しピンポイントに言えばシューゲイザーというジャンルで最も有名なバンドとして知られています。

シューゲイザーというのはロックミュージックの中のひとつのジャンルのことを指していて、その音楽的な特徴としては

エフェクターなどを複雑に組み合わせて深いディストーションをかけたギターサウンド、
ミニマルなリフ、
浮遊感のある甘いメロディーやサウンド、
囁くように歌い上げるボーカル

などが一般的にはあげられます。

文字にすると全くイメージが湧かないと思われますので、My Bloody Valentineの中でも一番シューゲイザーのど真ん中で、比較的輪郭がつかみやすい曲をご紹介します。

I Only Saidという曲です。いかがでしょうか??

聴いたところであまり分からないかもしれないですね(笑)

僕も初めてこの曲が収録されているLovelessというアルバムを聴いたときは全く理解できませんでした。

最初から最後までずっと不快なノイズが鳴らされ続けていて、何故これが音楽として成立しているのだろう?と不思議に思った記憶があります。

当時はまだノイズをノイズとしてしか受信できなかった状態でした。

本当に心地良くない思いをしながら何とか一周聴き終えたのですが、もう一回これを聴きたいとも思えず、しばらくこのアルバムを本棚に放置してしまいました。

ただ、このMy Bloody Valentineというバンドは、僕が当時一番好きだったNARASAKIというミュージシャン(ももクロなどに曲を下ろしている)が心底敬愛していたという、それで僕も手に取って聴いてみていたバンドだったので、

僕だけがこのアルバムを、このノイズを理解できないのがやっぱり悔しくて諦めきれず、何度も何度も我慢して聴いてみるうちにだんだんと耳が慣れてきたのか、ようやくノイズの中に気持ち良い感覚を見出だすことができるようになりました。

せっかくですのでLovelessまるごと置いておきますね(48分)。時間が余って余って仕方がない方はぜひ聴いてみてください。

そんなノイズの何が気持ち良いのかという話ですが、これは人それぞれ色々な感覚があるとは思いますが、

ずーっとノイズを浴び続けていると、段々と平衡感覚が曖昧になってくるというか、自分が今何処にいるのかが分からなくなってくる感覚があり、

そのトリップ感、現実から遠い所へ飛ばされていく感覚が個人的にはとても大好きです。

もしかしたらこれはドラッグの体験と近いのかもしれません。

手を出したことがないので分からないですが。

音楽というものには、音の発信源(生演奏だったりスピーカーだったりイヤホンだったりする)があって、その音を僕たちが意識的に拾う、すなわち音楽を“聴く”という最も基本的な構図があると思うのですが、

シューゲイザーでは曲の至るところに敷き詰められたノイズを聴き手に浴びせ続けることで、音源が目の前にあって僕らがそれを拾っている、音楽を“聴いている”という構図に対する意識から聴き手を解放してくれます。

この曲の後半を聴いてみてほしいです。

洪水のような強烈なノイズパートが2分も続く曲ですが、聴いてるうちにどんどん意識が遠くへ飛ばされていくような感覚があります。

自分は今部屋でイヤホンを使って音楽を聴いているんだとか、曲のどの部分を聴いているんだとか、そういう構図に対する意識から解放され無防備な状態で音を浴び続けることができます。

そういう、意識が飛ばされた無防備な状態を作り出しておいて浮遊感のある甘いメロディで脳内を直接殴るというのがシューゲイザーの常套手段で、このジャンルの一番の魅力かなと僕は思っています。

この曲をぜひ聴いてみてください(できればヘッドホンかイヤホンで)。

ノイズなのに、もの凄い美しさですよね...。

これはアマチュアの方が作られたVOCALOIDのシューゲイザーなのですが、サビのギターノイズが生み出す幻想感とメロディーの美しさの組合せが凄すぎるので、シューゲイザーの魅力を伝える入門曲としてよく色んな方におすすめしています。

この曲はシューゲイザーとはまた少し違うジャンルになるのですが、ノイズをもう少し暴力的なものとして使っていて、

暴力的なノイズの洪水で意識を飛ばしておいて唐突に祝祭的なシンセサイザーの旋律で刺す構成が本当に美しすぎて大好きです。

もう少し直接的なノイズも良く聴きます。こちらは工場のノイズをサンプリングしてループさせたもの。具体的な工場のイメージから段々と意識が遠くに飛ばされていく感覚が良いです。


ノイズを聴いているとノイズ以外のノイズが全く気にならなくなるのもとても良いですね(好きな文章列)。

空間をノイズ一色にしてそれ以外のノイズ全てを洗い流すことで聴き手の気が散らないようにしているというか、極めて純粋に目の前の音楽を楽しめる空間がノイズによって作り出されている感じがしますね。

最近流行りのASMRと呼ばれるものもなんとなく同じ効果が狙われているような気がします。

ひたすらホットドッグを食べる動画。

単一の音を選択的に聴き続けることで他のノイズを排除できるというか、そういう心地よさがあるのではないでしょうか。

シューゲイザーが大衆の音楽として流行する時代もそう遠くはないのかもしれません(願望)。


音楽の話ばかりしてしまいましたが、絵画に代表される視覚芸術でもノイズと同じような体験に浸れることができる大好きなアーティストがいます。

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分かりますでしょうか。

これはマーク・ロスコというアメリカの画家の作品です。

マーク・ロスコは1940年代後半のアメリカで起こった抽象表現主義という芸術運動を代表する画家の一人です(他の有名どころだとジャクソン・ポロックなどがいます)。

この絵画、画像で見るとスケール感が全く伝わらないのですが、人の身長を優に超えるサイズがあります。

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こんな感じで、目の前がすべてマーク・ロスコの絵画で覆われてしまうようなイメージです。

マーク・ロスコの絵画の前に立つと、その圧倒的なスケール感と深みのある色彩によって作品と正対していることを忘れてしまうくらい作品の中に飲み込まれてしまいます。

作品に飲み込まれることで周囲のノイズから解放され、絵画が持つ光や闇、その揺らぎといった純粋な美しさをストレートに浴び続けることができます。本当に最高です。

余談ですが(余談ばかりですが)、年末年始にイタリアへ旅行した時に観たサン・ピエトロ大聖堂でも同じような素晴らしい体験をしました。

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圧倒的なスケール感に飲み込まれながらその神々しさを浴び続けました。もう少しで敬虔なキリスト教徒になる所でした。

宗教もたぶん、狙っている効果が同じなのでしょうね。

一面を覆い尽くすことで平衡感覚を失わせる、世界観の内側に相手を飲み込んで客観視をさせないなど。いかに無防備な状態で思想を浴びせるか。

本当に素晴らしい体験でした。


先に述べた通り、このマーク・ロスコの絵画による体験と、My Bloody Valentineの楽曲による体験はかなり類似しているものがあると個人的には感じています。

作品に身体全体が包まれていく感覚、周囲のノイズから解放されていく感覚、純粋な美の世界に没頭できる感覚、全部同じだと思います。

それをマーク・ロスコは圧倒的なスケールと深みのある色彩で、My Bloody Valentineは空間を埋め尽くすノイズと浮遊感のある甘いメロディーで実現しています。媒体と手段が違うだけで体験は同じ。

...と一人で勝手に思っていたらMy Bloody Valentineの音空間をマーク・ロスコに例える記事を見つけてめちゃくちゃ興奮した記憶があります。


シューゲイザーに人生狂わされたふたり、菅野結以×小林祐介(THE NOVEMBERS)が語る〈愛なき轟音〉と価値観の揺らぎ
http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/14271

「僕もマイブラを初めて聴いた時は、マーク・ロスコの作品を思い浮かべましたし、あの輪郭がにじんで全てが一体となってグラデーションがかかっていく感じは、『Loveless』の音像とも通じるものがありますし。シューゲイザーと呼ばれるバンドのアートワークも、ロスコっぽいのが多い気がする。 」

分かります。。分かります。。

分かりすぎて渾身のガッツポーズしてしまいました。

もうひとつ、記事の中で菅野結以さん(モデルをされている方)の素晴らしい言説があったので引用します。

「私、シューゲイザーって抽象画みたいだなって思っていて。子供の頃、絵を描くのが好きで絵画教室に通っていたんですけど、抽象画しか描けなかったんです(笑)。写実が本当に嫌いで、そこにあるものを、そのまま描く意味がわからなかった。〈そこにあるんだから、自分が描く必要ないし、それを越えられなくない?〉って。でも抽象画は、頭の中にある世界をいくらでも自由に、自分の好きな色を使って、好きな形に描けちゃうことが本当に面白くて。シューゲイザーのフィードバック・ノイズも、そういうものだなって思うんです」

凄く良いコメントですよね。抽象画の良さがここに詰まっています。

もちろん写実も、当然目の前にある全ての要素を描写している訳ではないので厳密にはいくらかの「抽象」が行われていて、その選択に面白さがあったりもするんですけどね。

最近見かけたこのツイートが面白かった。抽象画と具象画に本当は境界線などないのかもしれない)



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菅野結以さん、この美貌でフィードバック・ノイズと抽象画好きとかやばいですよね、魅力的すぎる。

僕はいわゆる風景画や人物画のような絵画よりも、何が描かれているのかよく分からない抽象度の高い絵画をより好んで鑑賞しているのですが、それも全部My Bloody Valentineのノイズによる体験が影響しています。

物質が持つ具体的なイメージや意味から解放され、純粋な美の世界に浸れるのが抽象表現のとても良い所ですし、僕はその素晴らしさをノイズから学びました。

ノイズから派生して抽象表現の話まで展開しましたが、この抽象表現という観点でもう一度音楽の世界に戻ると、

Corneliusという大変素晴らしいアーティストがいまして、僕は彼の音楽に一番抽象的な素晴らしさを感じています。

Audio Architectureというタイトル通り、音楽を音色や音域、音量、リズムといった様々な要素によって緻密にデザインされた構造物(アーキテクチャ)として捉えた抽象的な曲がCorneliusには多くて、聴いていてとても楽しいです。

Corneliusはこの曲が一番好きですね。抽象化された音楽を映像のイメージとリンクさせる手法も彼ならではの素晴らしさです。

ずーっと大喜利と全く関係ない、音楽と絵画の話を続けてしまいました、すみません。

でも、大喜利でも抽象的な良さやノイズ的な良さを感じた場面は幾度かあったりします。


【お題】
サッカーゲームや格闘ゲームなどを競う、eスポーツ。このeスポーツが日本国内で普及していくことに対して貴方なりに思う今の課題を教えて下さい。

【回答】
eスポーツの会場でだけ振る舞われる定食があったとして、それがeスポーツ御膳と呼ばれる可能性がある

辻喜利での六角電波さんの回答です。

これ本当に素晴らしい回答すぎるのですが、何が素晴らしいかというと完全に構図の面白さだけが抽象的に提示されているんですよね。

個々の言葉の具体的なイメージや意味に頼らない、構図の面白さだけを際立てた極めて抽出的な回答だと思いました。凄い。


【お題】
画像で一言
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【回答】
部屋の中にワープホールが出来てるが、犬にはワープの概念がないのでアップルパイが飼い主を食べてると思いながら見ている。 (猫はアップルパイの概念がないので黄色にご主人様が飛び込んだと思ってる) (鶏は更に食と人の概念もないので円が円じゃないものを越えたと思ってる)

遊び場でのキャベツさんの回答です。

これ最初見たときめちゃくちゃ震えました...。

ひとつずつ概念が失われていくという構図は抽象的でとても綺麗なのに、個々の言葉はかなり雑然と並べられていてノイズ感がありとても好きな回答でした。

ノイズと美しさが共存している回答を見たのは初めてかもしれません。それくらい凄かった。

また、大喜利ではないのですが同じ文章表現としてもうひとつふたつ感動したものもあげておきます。

家臣さんの俳句投稿サイト「街のステーキ屋さん」でぺるともさんが投稿された自由律俳句です。

「バスが濡れててバス停は今から濡れる」

これも凄いですね...。めちゃくちゃ抽象的な文章だなと思いますし、無駄がないですね。

定型(季語無し)ではフロフロ Zoom-Zoom スタジアム広島さんが投稿された句がとても好きでした。

「ケルヒャー?のノズル?に絡むヒヤシンス」

いやーこの?の用法、凄すぎませんか...。

17文字も使っておいてヒヤシンスしか確かな情報が無いの面白いし、シンプルな構成なのに?のせいで全然情景が浮かんでこないのが凄かった。情景が浮かんでこその俳句なのに。

定型俳句ってたぶんリズムが大事だと思っていて、約束されるべき気持ち良い読み方みたいなのがたぶんあると思うんですが、

?のせいで都度そのリズムが完全に台無しになっている所がまさにノイズって感じで好きでした。

575でここまで曖昧で不明瞭なものを作れるの憧れてしまいますね。

(My Bloody ValentineがSoonという曲をリリースした時にブライアン・イーノが
「ポップの新しいスタンダードとなるだろう。かつてヒット・チャート入りした曲の中で、これ以上に曖昧で不明瞭なものを私は知らない」
とコメントされたところから引用しています。伝わる訳がありません)

ノイズから派生して抽象表現まで一気に紹介してしまったので少し話が膨らんでしまいました。

ノイズそのものに話を戻します。

(ノイズ以外の話がこのパートにおけるノイズで、ノイズそのものの話はノイズではないの面白いですね)

改めて、文章表現における純粋なノイズってなんだろうと考えた時に、きっとワードサラダがそれにあたるんだろうなあみたいなことを漠然と考えたことがあります。

ワードサラダとは「文法としては正しいが意味が破たんしている文章」のことを指します。

ちょうど最近twitterでバズっていたので持ってきました。面白いですね。

無関係な言葉が組み合わせられるという意味では後述するコラージュの概念ともよく似ているかもしれません。どうりで好きなわけです。

無関係な言葉なので前後の組み合わせで全く意味が積み上がらず、ひたすら今この瞬間に単一の情報量の言葉を浴び続けていく感じがノイズとかなり近い感覚があります。

ノイズを音の洪水と呼ぶなら、ワードサラダは言葉の洪水でしょうか。

ノイズが好きだったからなのか、コラージュが好きだったからなのかは分かりませんが僕はこのワードサラダという存在に結構はまってしまったので、一回遊び場に投稿してみたことがあります。

【お題】
「力が欲しいか?」みたいに言ってきたけど、全然ピンと来なかった悪魔の囁き

【回答】
ゆっくり勉強のお城が欲しい夏祭りの採点前か?目覚ましく牛乳寸前の香港高校が傑作させられている山の在庫で、フルーツの入力が映画に直接約束した話が泣いたの現時点での間一髪だよな。だから留学生の球根を内緒であまねく能動的に概算して重力の快音を内需と捉えて挨拶を塗り重ねたんだよな。悪魔にも理解できるよ。単色の空港が最低の独自春雨を来年に遠慮したのは潜在的に嫌の及第点だったってな。

結構良いワードサラダになった気がしていて今でも好きです。全く順位は伸びなかったですけど(笑)

ワードサラダは独立した文章として奥深さがあるので、お題との関係性を問われる大喜利には向いていないのかなと思います。

回答といいながら何一つ答えになってないですからね。もう少しお題に答える形を取らないと。



とまあ長々と記した通り僕はノイズのことがかなり好きなのですが、

ノイズを好きになるということは単純にノイズそのものの魅力を知れたということ以上に大きな意味があったりします。

一番最初に少し触れましたが、ノイズとは「処理対象となる情報以外の不要な情報」で、本来は捨てられるべき対象の存在です。

再度クラシック音楽を想像してみてください。

(僕はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が好き、特に第1楽章)

クラシック音楽ではピアノやバイオリンなど、ごく限られた楽器の音色のみを音楽として処理していて、その他多くの音は「音楽ではないもの」として捨てられています。

クラシック音楽にギターノイズや工場のノイズが紛れ込んでいたら雰囲気が台無しになってしまうと思います。

クラシック音楽は少し極端な例ですが、そのような今まで音楽として見向きもされなかった、排除すべき音として扱われてきたノイズに気持ち良さを覚えた、音楽の構成要素として認識し直すことができた。

その体験に価値観が大きく揺さぶられたというか、感覚が一気に解放されるような瞬間だったことを覚えています。

初めて聴いたときに心底気持ち悪いと思ったMy Bloody ValentineのLovelessというアルバムを、

繰り返し聴いていくうちに音楽として受け入れることができたのは間違いなく人生における大きなターニングポイントでした。

大喜利という競技は、お題に対して「回答」を提示して「笑いを取る」ということが至上命題である以上、

笑いを取ることができない要素やお題に沿うことのできない要素をノイズとして捨てていく作業を重ねていくことになりますが、

そこで捨てられる言葉にも間違いなく魅力は詰まっていて、そういう魅力を何とか拾い直せるような回答ができればと切に思います。

以前twitterで、「僕は僕の頭で思いつけるほとんどの回答にはもう完全に飽きてしまった、みんな本当に飽きたりされないんですか」みたいなことを呟いたら

冬の鬼さんに「最適解はお題ごと、さらには誰がいるのか、計何人なのか、お題読みはあるのか、会場の規模感はどうか、雰囲気は暖かいのか重いのか、お客さんはいるのか、前に答えた人は誰か、とかで変わるので飽きることはない」とコメントを頂きました(めちゃくちゃ嬉しかった)。

1題として同じシチュエーションなどなく、何が真芯で何がノイズになるのかは常に変動するのでその選択作業が常に面白さを持っているという意味だと解釈していて、その考えにめちゃくちゃ同意させて頂いたのですが、

でもやっぱり僕としてはそこで捨てられるノイズの方を眺めていきたいなというのがあります。

たとえそれによって今後一切大喜利で結果が出なくなったとしてもそう思います。



(2)コラージュについて

ようやく2つ目、ノイズ長かったですね...。

ノイズが長いで思い出しましたが、My Bloody ValentineにはYou Made Me Realizeという不朽の名曲があり、

途中の間奏でひたすらノイズを放出し続ける「ノイズ・ビット」というパートがあります(長い時は20分くらいやる)。

一言にノイズと言っても直線的に耳に刺さるもの、身体を響かせるもの、頭上を通り抜けていくもの、空間全体に敷き詰められるもの、遠くから遅れて聴こえるものなど本当に多彩で、今思い返しても凄すぎる空間でした。

昨年に自分さんとSONICMANIAに行った時は6~7分とわりと短めだったのですが、それでも本当に凄い体験で終わった後は放心状態になってしまいました。

同じノイズを延々と浴びていると、途中から逆に静寂を感じるのがノイズの奥深いところです。皆さんにもぜひ体験していただきたいです。


では続いてコラージュの話をします。

(おそらくもう誰もいらっしゃらないので壁に向かって話している感覚があります)


ここで触れているコラージュとは美術用語のことで、現代絵画におけるひとつの技法を指しています。

元々フランス語で「糊付け」を意味する言葉なのですが、そこから転じて「異なる素材を組み合わせて、本来の素材が持っていたイメージや性質が切り離され、新しいイメージや性質を作成する技法」という意味で使われています。

【美術解説】コラージュ「無意識の錬金術」 - Artpedia / わかる、近代美術と現代美術
https://www.artpedia.jp/collage/

僕はこのコラージュという手法がとても好きで、特に絵画や写真などの視覚芸術では一番好んで観ています。

(映画ではモンタージュという用語の方が一般的かもしれません)

百聞は一見に如かずだと思いますので、まずは僕が一番好きな岡上淑子というコラージュ作家の作品をいくつかご紹介します。

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いやー良すぎて、良すぎて言葉が出ないですね...。

普段僕たちが当たり前のように触れている素材を新しい関係性の中に置いてあげることによって引き起こされる違和感から、

よりそれぞれの素材の存在感が際立つというか、今までとは違った見え方になるのがコラージュのとても面白い所です。

この岡上淑子の作品をあげたときに、真っ先にネイノーさんがマックス・エルンストの名前をあげてくれてとても嬉しかったのですが、

そのネイノーさんが先日コラージュ的な文脈でお気に入りの動画を紹介してくださって、それがとても良かったのでこのエントリでも紹介させて頂きます。

良いですね...。

最初は具体的な素材がイメージできるコラージュから始まって、段々と映像が加速していく中でカオスに抽象的になっていく展開がとっても良いです。

そのまま後半はループに入っていてかなりトリップ感もあります(ループの良さについては後ほど触れます)。

映像作品によるコラージュは組み合わせだけでなく素材の動き方でも意外性を生み出せるのと、同時に音楽でもコラージュ感を表現できるのが良いところですね。よりカオスを産み出しやすいというか。

静止画は静止画ゆえに自由に想像が膨らむのが良いところなのですけどね。文章表現も同じく。


さて、このコラージュというものは表現の技法そのものを表す用語になりますが、コラージュに隣接する概念として「デペイズマン」と呼ばれるものがあります。

デペイズマンの語源はフランス語の「デペイゼ Dépeyser」からきていて、元々は転地や国外追放、異なる環境に身を置くことを意味しています。

さらには「違和感や居心地の悪さを人にもたらす」という意味も含まれています。

ある素材を本来あるべき環境や文脈から切り離して別の場所へ移して置くことで、画面に異和感を生じさせる表現手法、それがデペイズマンであり、そのための技法がコラージュということになります。

デペイズマンによる体験については、東京都庭園美術館で開催されていた「岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟」展の図録に良い表現があったので少しだけ引用させていただきます。

「地上に存在する万物それぞれが、機能性や期待される役割を備えた対象物であったとき、それらが慣習や一定のルールからかけ離れた別の場所に置かれたとしたら、我々は一瞬混乱し、胸騒ぎを覚えるだろう」

「ふたつ以上の異なる性質をもった対象物を同じ時空間に同居させることによって、引き起こされた「違和」が我々の意識を攪乱し、画像に火花が散るような驚異の世界を創出した」

「違和」によって火花が散るという表現、めちゃくちゃ素晴らしいですね...。

まさにこの火花が見たくて、僕は様々なコラージュ作品を観ています。

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これはポーランドの写真家、ヴェロニカ・ゲンシツカの作品。

ありふれた風景に加えられた修正によって一気に非現実感が押し寄せる感覚がたまらないですね。

写真は絵画とは違って実際に実在しているものを収める媒体なのでそこには強い現実感が内包されていて、コラージュによる非現実感とのコントラストがより明確に浮き彫りになる感じがして面白いです。

ヴェロニカ・ゲンシツカは4/13から開催されるKYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭に作品が出展されることが決まっていて、戦2019の翌日に観に行こうと思っているので本当に楽しみです。

公式ウェブサイトはこちら。
https://www.kyotographie.jp



コラージュのように、様々な素材をそれぞれ単体のものとして捉えて新しい関係性を構築していくという意味では、世の中の数多くの抽象画も広い意味では同じ試みをしていると言えるのかもしれません。

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ジャスパー・ジョーンズの「パン」という作品。重たい質感の鉛のプレートの上と食パンの意外な組み合わせがとても面白くて、

そのシンプルな切れ味に観た瞬間一目惚れしてしまいました。

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橋爪彩さんの「Les amies」という作品。本来ならあるべきではない袋がより複雑な雰囲気を与えているというか、愛だけでは片付けられない違和感や不安のようなものを与えているような印象があります。

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元ネタはルネ・マグリットの「恋人たち」という作品ですが、僕は橋爪彩さんの作品の方が冷たい質感で好きですね。

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ロイ・リキテンスタインの「青い床の室内が描かれた壁紙」という作品。

部屋の要素を高度に抽象化して、模様と色彩の組み合わせによって再構築しているのがとても面白いです。

抽象画は本当に面白い世界で無限に紹介できてしまうのでここらへんでやめておきましょう。


また音楽の世界だと上述したCorneliusなんかはコラージュの要素がかなり強いと思います。

音楽ではサンプリングと表現されることが多いですね。

こちらはトナーの音をサンプリングして組み込んだ曲。

その他まだまだたくさんのアーティストがコラージュ的な文脈で素晴らしい作品を世に出されていますが、

僕がその中でも一番素晴らしいと思っているのは椎名林檎の「加爾基 精液 栗ノ花」というアルバムです。

このアルバムには本当に多くの種類の音やリズムが詰め込まれていて、それでいてアルバム全体として統一感があって凄すぎるのですが、特に宗教と葬列という曲が凄すぎます。

宗教。Bメロのノイズじみた焦燥感からのサビのストリングスへの移行が美しすぎる。宗教そのものだと思う。

葬列。これもまた音が多いというか、民族的なパーカッションから始まり激しいドラムやディストーションのかかったエレキギターに荘厳なパイプオルガン、極めつけに全てを飲み込むノイズと目まぐるしいにも程がある構成です。

でもしっかりと冷たい、雰囲気でコーティングされているのが凄い。

椎名林檎で一番好きなアルバムを聞かれたとき、「加爾基 精液 栗ノ花」と答える方とは一瞬で仲良くなれる自信があります。


また大喜利から遠く離れてしまいました。

大喜利も含めた文章表現におけるコラージュについても考えてみたいと思います。

今回、ノイズ、コラージュ、ループという3つの手法について順を追ってご紹介していますが、

このコラージュという手法が一番、文章表現との親和性が高いと感じています。

文章は音や形、色といった素材とは違って単語レベルでも明確な意味が発生してしまうのでノイズと認識されるのがなかなか難しいし、

文章は何かしらの思考を伝達するために存在しているので、同じ情報を延々と繰り返すループという概念もなかなか成立しにくいと思います(無理やり繰り返すこともできるが不自然さが出てしまう)。

その点、「異なる素材を組み合わせて、本来の素材が持っていたイメージや性質が切り離され、新しいイメージや性質を作成する」コラージュについては、

元々明確な意味を持つ単語の組合せという性質を持っている文章にとっては一番与しやすい手法と言っても良いのかもしれません。

そもそも、絵画の世界におけるコラージュやデペイズマンの運動も、19世紀の詩人であるロートレアモン伯爵が記した叙事詩の中のある一節(つまり文章)から大きな影響を受けていると言われています。



「解剖台の上の、ミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」



良いですね、とても好きな文章です。少しワードサラダにも近いですかね。

僕も最近この手の文章を作るのにハマっていて、暇を見つけては140字程度のコラージュを作ったりしています。

ワードサラダくらい単語レベルで言葉を継ぎはぎしているものもあれば、日常的なシーンの中で少しだけ違和感のある組合せを作ったりと、コラージュの解像度を色々変えながら楽しんでいます。

短く収める文章だと、家臣さんが開いてくださっている街のステーキ屋さんというサイトで自由律俳句を投稿していて、そこでも色々試したりしています。

街のステーキ屋さん
http://boketest.php.xdomain.jp/index.php

「優しい副流煙だよそんな顔しないで」

「女が作ったロボットって感じ」

「軽い魔法は着こなす感覚」

「鳥みたいな味だね鳥使えばいいのに」

ここら辺の句は普段の思考の外から言葉を持ってこれた感じがして個人的には好きでした。

短いですがデペイズマン的な違和感を鋭く織り込めたと思っています。

これらの取り組みは純粋に楽しいから今後も続けていく予定で、それはそれで全然いいことなのですが、

やっぱりそれがいつかは大喜利の回答にも活きてきてほしいなというのはありますね。

今のところは全く活きてこなくて、ずっと下の方の順位をウロウロしています(笑)

まあ自分が好きな文章なら点数なんてどうでもいいんですけどね。まず好きな文章を作れるようになることが何よりも重要です。



(3)ループについて

ようやく3つ目、無限に文章を書かないといけないのかなこれは。

最後に紹介する手法はループになります。

ループは文字通り「一定のパターンの繰り返し」のことを指しています。

僕の場合は、音楽やお笑いなどでこのループという手法に触れることが多いです。

Medicineという、1990年に結成されたロサンゼルス出身のバンドのTurningという曲。

エレクトリックなリズムがループしていく中で曲が盛り上がっていき、サビの終わりに眩しいノイズが点滅する構成がめちゃくちゃ好きです。

この曲があればドラッグは一生必要ありません。

これはGang Gang Danceというニューヨーク出身のバンド。神聖な大木さんから教えて頂いて一気にハマりました。

呪術的な雰囲気の中でループされる電子音とパーカッションがかなり最高で、一気に意識が遠くに飛ばされてしまいます。


ループの一番の良さは、時間や構図の概念から解放されることだと個人的には思います。

今どれくらい音楽を聴いているのかとか、曲がどこまで進行しているのかとか、そういう雑念から解放されて、ただひたすら音の美しさに浸り続けられる所が本当に良いです。

ノイズの時と同じような表現を繰り返してしまいましたが、ノイズと狙っていることは同じなのではないかと思います。

いかに聴き手の雑念を解放して、無防備な状態にした上で美しい音を浴びせるか。

そのための手段がノイズであり、ループなのだと思います。

実際、一番最初に紹介したシューゲイザーというジャンルの曲はループ構造を採用しているものが多いです。

おなじみ(?)My Bloody ValentineのOnly Tomorrowという曲。アウトロのノイズとループが素晴らしい...。

The Jesus and Mary ChainのSundownという曲。これもアウトロですね。ノイズ、ループの中から聴こえてくるギターが眩しすぎて音楽なのに光を感じます。

ノイズとループを併用して、聴き手の意識を遠く遠くに飛ばしてくれています。

Puce Maryというノイズ/インダストリアル・ ミュージックの女性アーティスト。ノイズそのもののループとサウンド・コラージュが本当に最高です。


もう1組、音楽以外でも素晴らしいループをやっているお笑いコンビが居るので紹介させてください(初めてお笑いの紹介をします)。

ランジャタイです。

僕は本当に、人類で一番ランジャタイのことが好きなんじゃないかというくらいにランジャタイのことが好きです。

ランジャタイが漫才のネタで見せるループは他の芸人とは全く違った性質を持つループで、音楽的なループの体験と似ていて本当に好きですね。。

彼らはループをするという構図自体、ループそのものの面白さを伝えることを目的としてループを使っているのではなく、

観客を現実から最も遠い世界へ連れていくことを目的として、その手段のひとつとしてループを使っている気がしていて、

そこが他の芸人とは全く違う所だなと個人的には勝手に思ったりしています。

これはもう全く伝わらない感覚なのかもしれないですが、

僕はランジャタイの漫才とこのDeerhunterのNothing Ever Happenedという曲の構造がめちゃくちゃ似ていると思っています。

前半疾走して高揚感を作り上げておいて、一番良いタイミングで唐突にループに入りトランスさせていくという流れがとても似ていると思います。

ランジャタイの漫才は極めて音楽的な思想があるというか、面白いアプローチをしているなと思います。

普段どんな音楽を聴かれているのか気になりますね。意外とJpopとかなのかもしれないですけど。


そういえば以前にもランジャタイのネタが音楽みたいだとツイートしたことがあったな~と思って探してみたら、

いいねして下さっていたのが神聖な大木さんと謹製さんで「ですよね」と思ってしまった。こういうの嬉しすぎますね。。

それと、ランジャタイのネタにはループだけではなく、ノイズとコラージュの要素もかなり含まれていると思っています。

本来なら捨てられるべき無駄な情報や展開が本当に多いし、素材同士の意外な組合せというのも至る所にちりばめられています。

そうして観客を徐々に現実への意識から遠ざけて無防備にした所で、ループをぶちこんで畳み掛けるという...。

ランジャタイのネタにはノイズ、コラージュ、ループのすべてがあり、僕の好きな体験がふんだんに詰めこまれています。

もうこれ以上に好きなお笑いコンビは見つけられないかもしれません。


最後に、ループは文章ではなかなか成立しにくいと記しましたが、大喜利の中でひとつループ的な観点から素晴らしい回答を見つけたのでご紹介させて頂きます。

タイガーバームガーデン堀さん(モモスさん)のネタボケライフでの回答です。

凄いですね...。

同じ文章でループを作ると、どうしても狂気や怖さのような意味合いが付加されてしまいがちなのですが、

新しい情報を重ねて文章自体は進めていきながら、句点のリズムでループを作っていくというのは手法としてかなり面白いなと思いました。

以前堀さんと直接お話しさせて頂いた時も「句点が面白い」ということを仰られていたような記憶があったのですが、

文字通り句点が最大限に活かされためちゃくちゃ素晴らしい回答だなと感動しました(これに70いいねついてるの本当に良い、目の保養になります)。




ようやく3つの手法の紹介が終わりました。

(静寂を感じています)


ノイズ、コラージュ、ループという3つの手法について改めて見つめ直してみた結果、僕が普遍的、本質的に好きだと思っている体験について、

「徹底的に現実世界から離れたい」

という意識があるのではないかと思いました。

構図や時間、要素同士の既存の関係性など、現在世界に存在している様々な秩序や概念から解放された感覚を味わいたい、

現実世界から最も遠い所へ意識を飛ばされたい、というのが表現に触れるときの根本的な欲求としてあるような気がしています。

だから手法としてノイズが好きだし、コラージュが好きだし、ループが好きだということになるのではないかと思います。

大喜利で言えば、言葉が無秩序に、不明瞭に、抽象的に重ねられていく、意味のよく分からない回答が本当は好きなのだと思います。

これは元々僕が頑張りたいと言っていた、短い文章から情景を広げていく、「余韻が残る」回答とは真逆も真逆です。


ああなるほど、、自分の嗜好と真逆のことをしていたのだからそれは楽しくないに決まってますよね。。

かなり腑に落ちました。



では、自分が普遍的、本質的に好きだと思っている体験が「徹底的に現実世界から離れる」ことだとして、

音楽や視覚芸術またはその他様々な表現媒体がある中で、大喜利も含めた文章表現としてそれを楽しんでいくためには何を心掛ければ良いのでしょうか?

少し前、短い文章で「余韻が残る」回答を作り上げることを頑張って目指していた時、頭の中にある好きな映像や光景をどう試行錯誤しても短い文章に落とし込めず悩んでいたことがあったのですが、

そもそも映像や光景が浮かんでいるものはストレートに映像や光景として伝えた方が絶対に伝わるというか、

わざわざ映像や光景を文章の中に圧縮して、受け手の方でまた映像や光景に解凍してもらうというのはかなり絶望的なプロセスなのではないかと感じました。


いやこのプロセス自体にも明確な利点と魅力はあって、映像や光景をそのままストレートに出力して伝えるよりは、

文章に情報を圧縮しておいて受け手側でその文章を映像や光景に解凍させる方がより臨場感が生まれるというか、

能動的にその映像や光景に没入した上での感動を与えやすいのは間違いないと思います。

俳句のフォーマットは、まさに上記の効果が狙われたフォーマットなんだと個人的には考えています。

映像や光景をあえて575の短い文章に圧縮して伝えることによって、受け手側でその映像や光景を一気に立ち上がらせる、

そのダイナミズムみたいなものが俳句の醍醐味なのではないかと推察しています。

個人的な感想なので全然違ったらすみません(字余り)

それはそれで楽しいのですが、それはやっぱりある程度現実世界ないしその延長線上にある世界の映像や光景を扱っているからこそ成り立つプロセスで、

現実世界から遠く離れた地点では全く成り立たないプロセスだとも思っています。

無秩序で、不明瞭で、抽象的な、現実世界から遠く離れた映像や光景を想起してそれを文章に圧縮して込めた所で、

受け手側に現実世界から離れる準備が無ければ狙った映像や光景を想起させることは不可能に近いのではと思います。

先ほども述べた通り、僕は岡上淑子のコラージュ作品がとてもとても好きなのですが、

頭にこういった絵が浮かんでいたとして、絶対に文章で伝えるより絵のまま伝えた方が魅力が伝わるはずです。

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どれだけ言葉を尽くしても、この構図、雰囲気は文章では伝えられないです。

文章はあまりに万人にとって身近すぎる、常になくてはならないツールであるが故に、同じ文章でも受け手によって無数の解釈と補足が存在していて、

他人の解釈と補足に全てを委ねた上で情報の伝達が行われている極めて不確実性、エラー率の高いツールだと思っています。

だからこそ、いわゆる専門家と呼ばれる方々は一般人には馴染みのない難しい文章を多用されるのだと思います。


余談ですが、たまに「難しいことを簡単な文章や言葉を使って分かりやすく説明できるのが本当の賢さ」みたいな意見を目にすることがあるのですが、これがかなり嫌いです。

正しい意見ではあると思うのですが、これはあくまで難しい文章や言葉を知っている人側での話であって、

難しい文章や言葉を知らない、簡単な文章や言葉しか使えない人が意見する話では全くないと思うんですよね。

難しい言葉を簡単な言葉に変えることでどれだけ精度が落ちるか、ミスリーディングの可能性が高まるか。

そういう犠牲を払って、多くの妥協をした上で複雑な事柄を単純化して伝えている訳で、その涙ぐましい努力について想像できない方が簡単な言葉だけつまんでその事柄を理解した気になるのは絶対に違うんですよね。

複雑な事柄は複雑な事柄のまま伝えられるのであれば絶対にそちらの方が素晴らしいので。

専門家の方々は、知識をひけらかす訳ではなく、伝える精度を少しでも上げるために難しい文章や言葉を使っている訳で、

僕達もそのジャンルが本当に好きなのであれば言葉の研鑽を重ねて少しずつでもいいからそれに追従していくべきだと思います。

決して研鑽を放棄した方が使って良いセリフではありません。


余談にしても余談すぎましたが、結局文章というのは情報伝達においてかなり不確実性が高く、信頼することが難しいツールだということが言いたいことでした。

(文章で他人に何かを伝えるということを仕事にできている方はかなり凄い、日々の研鑽の賜物です)

大喜利でもよく、なんでこの回答がウケないんだろう?と思ったりすることがありますが、おそらくほとんどは思い描いていた面白い光景がきちんと受け手に伝わらなかったことに起因すると思います。

受け手は情報が圧縮された結果の出力である文章そのものにしか触れられないので、文章が適切でなければ出し手が当初思い描いていた面白い光景には到底辿り着けません。

その不確実性を解消するためには、出し手と受け手で容易に共有できる映像や光景、つまり「あるある」を言葉に圧縮して渡すことが一番手っ取り早いですが、

僕は「徹底的に現実世界から離れる」ことが大好きだという結論が出たので、その解決策を選択することはまずあり得ないです。


文章が持つ情報伝達に関する強い不確実性の中では、僕自身が好きだと思っている体験全てを文章で表現しようとするという姿勢自体がそもそも間違っていて、

音楽や視覚芸術で分かりやすく表現できるのであれば音楽や視覚芸術として表現すべきだし、

逆に文章でしかできないことを文章として表現するのが一番望ましいのだろうなと思います。


ということで、音楽と視覚芸術、文章の特徴の違いを簡単に整理した上で、文章に適した表現というものを最後に考えてみたいと思います。

(終わりが見えてきました)


(1)音楽

音楽の一番大きな特徴は「指定した要素を指定した順番で複数同時に提示できること」だと思います。

もう少し簡単に表現すると、様々な音を好きなタイミング、好きな順番で複数同時に受け手に聴かせることができる、という意味です。

絵画や写真などの視覚芸術は、多くの要素を一度に提示することができますが、受け手側がその要素に触れる順番までは指定することができません。

また文章は、指定した要素を指定した順番で提示することはできますが、要素を複数同時に提示することはできません。

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こたらはアンドレアス・グルスキーという写真家の作品。

音楽と同じく複数の要素を同時に提示していますが、写真全体の抽象的な構図を先に観るか、個々の要素の細部を先に観るか、また個々の要素の中のどの要素を先に観るか、

絵画や写真などの視覚芸術はそれらの順番まで指定することができません。それは受け手の選択に任されています。

それに対して音楽はどの要素を同時に組み合わせて、どの順番で受け手に提示するかを全て指定することができます。

シューゲイザーというジャンルは、

エフェクターなどを複雑に組み合わせて深いディストーションをかけたギターサウンド、
ミニマルなリフ、
浮遊感のある甘いメロディーやサウンド、
囁くように歌い上げるボーカル

という4つの要素を同時に提示することで現実から遠く離れたサイケデリックな世界観を表現しています。

またこのIn Another Wayという曲では、ループを曲の最後に提示することでトリップ感を高めています。

これは僕が敬愛するNARASAKIというミュージシャンがももいろクローバーに提供した曲です。

この曲、一見すると可愛らしいアイドルソングなのですが、よくよくトラックを聴いてみるとめちゃくちゃノイジーなギターが曲一面に敷き詰められています。音の種類もとても多いです。

アイドル、電子音、民族音楽、ギターノイズの要素が同時に提示されかつお互いひとつも無理することなく最適なバランスを保っていていつ聴いても何度聴いても感動してしまいます。

これはNARASAKIが1991年に結成したCoaltar Of The Deepersというバンドの、個人的に一番最強だと思っているprophet provedという曲です。

この曲ではギターノイズはサビの時だけ短く提示されます。切ないトーンの電子音とコーラスが提示された後にギターノイズが短く提示されることでギターノイズ自身もまた暴力性とは一味違った、切ない、衝動的な魅力を醸し出しています。

このように、「指定した要素を指定した順番で複数同時に提示できること」が音楽の一番の特徴であり、醍醐味なのではないかと思います。

その要素、順番に関する配列は途方に暮れるほど無数に存在していて、常日頃新しい鉱脈を探索されているミュージシャンの方々には本当に頭の下がる思いです。

また、音楽は単体の要素が持つ意味を絞れるところも特徴のひとつです。

絵画、写真などの視覚芸術の中で提示されている個々の構成物や文章の中で提示されている個々の単語は、それ単体だけを切り出してもかなりの意味を含有してしまわざるを得ないのですが、

音楽の場合、それぞれの音はそれ単体としてはあまり多くの意味を持ってはいません。

意味の少ない、極めて抽象的な要素の組み合わせを純粋に楽しめるのも音楽の良いところだと思います。

要素の意味が少なく、極めて抽象的という話に関連して、神聖な大木さんがツイキャスで触れられていたアンビエントの話も少ししておきたいと思います。

以前、神聖な大木さんが音楽の嗜好と大喜利の嗜好の関係性について触れてくださって、

「モーリシャスさんはシューゲイザー好きなのでもっと言葉を重ねたいと言っていた、自分はアンビエント好きだけど大喜利でやるのはなかなか難しい」

と仰られていました(かなり意訳です間違っていたら申し訳ありません)

アンビエントは「周囲の」「環境の」のいう意味があり、音楽用語としてのアンビエントを直訳すると「環境音楽」ということになります。

アンビエントという言葉には「周囲の環境に溶け込んだもの」というニュアンスがあることから、

音楽としてのアンビエントは「周囲の環境に溶け込んだ音楽」と理解できます。
 
1988年に初めてアンビエントの概念を作ったとされるイギリスのブライアン・イーノという作曲家は、

アンビエントミュージックを「興味深いけど無視できる音楽」という言葉で説明しました。

Beach HouseのDiveという曲。アンビエントとしてはポップ寄りですが、昨年リリースされたアルバムは名盤中の名盤でした。本当に抽象的で美しい。

さて、本題ですが、結論からいうとこのアンビエントという世界観を大喜利に反映させるのはかなり難しいと僕も思います(理由は違うだろうと思いますが)。

アンビエントは極限まで意味を絞ることで生み出される抽象的な音空間が大きな魅力だと思いますが、文章や単語はどこまでシンプルにしても依然として強い意味が残ってしまうからです。

極端な話、単語をひとつ置いておくだけでも相当量の意味が回答に付加されてしまいます。

そういう意味では、要素を絞っていくアンビエントとは違って要素を重ねていくノイズの方がまだ文章との親和性があると思います。


(2)視覚芸術(絵画、写真等)

視覚芸術の一番大きな特徴は「多くの要素を同時に、全体の構図から細部までを提示できること」だと思います。

もう少し簡単に表現すると、多くのモチーフを細かく描けて、それをひとつのキャンバスの中で全体の構図から細部まで一気に受け手に見せることができる、という意味です。

音楽もいくらかの要素を同時に提示することはできますが、提示できる要素数の上限に制約があります。

また文章は、映像や光景に対して視覚芸術ほど細部まで個々の要素を描写することができませんし、一気に全体の構図を提示することもできません。

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宗教画が一番分かりやすい例かもしれません。

これだけの要素について、全体の構図から細部の構成要素まで一気に提示できることが視覚芸術の良さだと思います。

この世界観を想起できたとして、どう試行錯誤しても文章で表現することは難しいです。

先程も述べましたが、やっぱり視覚芸術として表現できるものはストレートに視覚芸術にした方が望ましいのだと思います。

それが僕が「余韻の残る」回答を目指さなくなった大きな要因でもあります。

試行錯誤すればするほど、それは絵画や写真で十分だと思ってしまうようになりました。


話は逸れますが、逆に、絵画においても要素や意味を極限まで絞っていくような運動があり、そういった作品もかなり好きです。

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フランク・ステラのトムリンソン・コート・パークという作品。

この作品は非常に限られた要素で構成された抽象美術=ミニマル・アートの先駆と見なされています。


(3)文章(大喜利含む)

さて、いよいよ最後、文章の特徴を踏まえて今度取り組んでいくべきことについて考えたいと思います。

文章の一番大きな特徴は「単一の要素を自分が指定した順番で提示でき、かつ以前に提示した要素との関係から新しい意味を生み出せること」だと思います。

音楽も文章と同じく「単一の要素を、自分が指定した順番で提示していくこと」自体はできますが、

音楽における個々の要素は極めて抽象的で意味が少なく、以前に提示した要素との関係性から新しい意味を生み出していくことが難しいです。
(コード進行程度の配列のパターンはもちろんありますが)

絵画や写真などの視覚芸術は多くの要素を同時に提示してそこから新しい意味を生み出すことはできますが、逆に単一の要素に絞って要素を提示することができません。

例えば、絵画と言葉それぞれで車について伝えるケースを考えてみましょう。

言葉の場合、車と伝えれば車という単一の要素だけを提示することができますが、

絵画や写真などの視覚芸術の場合、車を描く場合には必ず色や形、大きさなど他の要素まで一緒に伝えざるを得ません。

色や形、大きさなどといった要素を排除して、純粋に車という要素だけを視覚芸術で表現するのは不可能です。

赤い車の場合、視覚芸術では「赤い車」を提示するしかないですが、文章では「赤い」と「車」を切り離して、それぞれを単体で提示することができます。


現実世界であれ現実世界から遠く離れた空想であれ、視覚芸術はどうあがいてもひとつのキャンバス上に成立し得るものしか描けないのですが、

文章は個々の要素を完全に独立させて配列することができるため、同時に成立し得ないものまで描くことができます。

僕はこれが文章表現の一番凄い部分であり、一番魅力的な部分だと思っています。

例えば、「重い会釈」という要素を視覚芸術として絵画や写真などに落とし込むことはできるのでしょうか?

それは難しいと思います。なぜなら会釈という名詞には軽いという意味がすでに含まれていて、重いという形容詞と完全に矛盾してしまうからです。

存在自体が矛盾しているものを視覚芸術は扱うことができません。「重い」を描けば「会釈」が消えるし、「会釈」を描けば「重い」が消えてしまいます。

しかし文章の場合は、「重い」も「会釈」も残すことができます。

このように、名詞と形容詞、副詞を完全に切り離して独立させて、意味の制約を受けずに自由に配置できる点が文章の素晴らしさであり、奥深さだと感じています。

そしてこの点が、コラージュという手法が文章と非常に親和性が高いと述べた一番の理由になります。

絵画や写真におけるコラージュは、全体の構図を一度に提示できる、細部まで世界観を作り込めるという良さはありますが、

絵画や写真としてひとつのキャンバス上に落とし込める、すなわち要素同士が矛盾しない範囲内での表現しか扱うことができません。


よく、現実世界での出来事に対して、それを適切に表現できる文章や言葉が不足しているという話を聞くことがあります。

それは正しく、現実世界での出来事を適切に表現するには文章や言葉があまりにも少なすぎるというのは間違いなくあるのですが、

逆に現実世界での出来事として、空想での具体的なイメージとしては表現できない文章や言葉というものも同じくらいたくさんあります。

言葉というものは現実世界や空想の奴隷などでは決してなく、もっともっと自由で独立した存在なのです。

そういう、文章や言葉が持つ大きな可能性、映像や光景の世界に当てはめる形で文章や言葉を探すのではなく純粋に文章や言葉そのものの世界を見ていく、

映像や光景の制約なく文章における言葉の組み合わせを考えていくことができたらかなり楽しいだろうなと思います。

それが音楽や視覚芸術ではなく、わざわざ文章という表現媒体を用いる一番の意味なのではないでしょうか?

と僕は思います。


文章や言葉は何にも制約を受けない自由で独立した存在なので、使い方によっては音楽や、絵画や写真などの視覚芸術よりも遥かに現実世界から遠い場所へと連れていってくれます。


視点が急に変わる世界も観ることができます。

「渡り鳥みるみるわれの小さくなり」
上田五千石

この視点の変化は凄いですよね。「小さくなり」で全てを覆す瞬間がたまらないです。

文章における視点の移り変わりの話についてはパラドクスさんの考察がめちゃくちゃ面白かったので是非読んでみて下さい。


また、着地が急に変わる世界も観ることができます。

【お題】
車を売るなら_____

【回答】
車を売るならサインする前に一度思い止まって、売られた後の車のことを想像して、自分の境遇と重ねてみて、あれうまく重ならないですね、影の面積が違いすぎる


ぼけおめの回答です。最後急にベクトルが変わって着地するのが本当に好きでした。


ハシリドコロさんは音楽も聴かれないそうなので僕とは対極の位置にいると思いますが、

対極から純粋に文章の可能性を試していくような回答を結構出されていて、プロセスは違うけど最終的な出力としては結構同じベクトルになっていくかもしれない、と少し思いました。


また、要素は多いのに映像や光景が全く浮かんでこなような、そんな実在し得ない世界も観ることができます。

「単一の情報が重ねられたとき、個々の単語が意味を持たないもしくは別の意味を持つ状態を作りたい」

というのは写真家アンドレアス・グルスキーの言葉ですが、まさにデペイズマンとも通ずる思想があるように思います。

短い文章で、読んだ瞬間に全体が綺麗に伝わるような回答は僕としてはもう別に文章という表現媒体ではやらなくてもいいことだと思っていて(できれば絵画や写真を勉強したい)、

前に置いた要素の意味の蓄積を考えながら、そこに違和感を与えるように思考のノイズになるように次の要素を置いていく、

「単一の要素を自分が指定した順番で提示でき、かつ以前に提示した要素との関係から新しい意味を生み出せる」からこそ、

「現実世界や空想から解放された自由で独立した存在」だからこそできる作業を文章では意識的にやっていきたいと思っています。



ただ、まあこれ別に大喜利でやらなくてもできますね(笑)

お題⇔回答の関係性ではなく、文章の中での要素の関係性を考えるのが面白いので、大喜利である必然性が全く無いです。



はー



これだけ長々と書いて、特に大喜利として頑張ることはないというオチを作ってしまいました。

推理小説に犯人がいなかったみたいな。

ただまあ大喜利の世界でも、シンプルで鋭い、お題にも答えつつ文章そのものが面白い回答はたくさんあるので、そういうものを狙っていけたらとは思います。

文章としての面白さを考えていく中でたまたま大喜利的にも面白いものが生まれてくれて、それをどなたかと共有できればそれだけでとてもとても満足です。

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辻喜利やったぜ


ようやく完全に頭が整理されました。


4年目もやるぞ。